So-net無料ブログ作成

お見合いの思い出 [思い出]

doblog過去記事より


独身の頃、何回かお見合いをしたことがあって
そのうちの一人の男性と二回目に会ったとき
どこかでお昼を食べようということになりました。

何となくあんまり気乗りがしていなかった相手ですが、
関東からこちらまでわざわざ、このお見合いのために
帰ってきて来られているということもあり、仲人さんから「もう一回会いたい」というお話をいただき、会ったのでした。

ブラブラと街を歩き、そろそろお昼、どこかで食べようか・・ということになって
とある高級日本料理のお店の前で足が止まった、その人。

「ここ高いんだよな~。お昼の定食も3000円から、数も限定だし・・」と私はぼんやり思ったのですが、その人は

「ここに入りましょうか?」

と先に入っていきます。

他のお客さんは定年後のご夫婦らしき一組がチラっと見えたぐらい。

テーブルについて、メニューを渡されたその男性、値段を見てびっくりしたのではないかと思います。

「何にしますか?」と彼から聞かれて
なんとなく気の毒になった私は

「あんまりお腹空いてないからいいです」と言いました。

可愛げがなかったかも知れないけど、はっきり言って、これでもう会うつもりのない人におごってもらうのもイヤだったし、勝手に食べれば~~?なんて意地悪くも思っていたのでした。

彼もしばらく考えていましたが、握りを注文しました。

そして、仲居さんに

「こちらのお嬢様は何になさいますか?」と聞かれ

そいつは

「あ、お腹空いてないんだって、いいんだって」

とニヤニヤ笑いながら言ったのでした!(`´メ)

なんで(`´メ)マークかというとですね~

自分で「要らない」と言っておきながら、ナンですが

「要らない」と言っても、同じ物を注文する、とか

せめてジュースとか頼んでくれていいんじゃないですか??

そいつは自分だけ平気な顔してお寿司を食べてました。

私はお茶をすすってました。

こいつとは金輪際会わない!と固く心に思いましたね。

そして、そいつが相手の女性にはお茶をすすらせて、
自分だけ食事をするということは、きっと、そいつも、もう私と会う気はないんだろうな・・と思い、その場から早く逃げ帰りたい私でした。

帰ってすぐ、お仲人さんに、「どうも合わないのでお断りしてください」と親から電話を入れてもらい、それで終わったはずでした。

しかし、それから一週間経って、そいつから電話がかかってきました。

それも喫茶店から・・・(+_+)

「ぜひ来て欲しいと思ってます」と・・。

本気かよ~~っ。
何考えてんのよ~~~っ!

悪い人じゃないのかも知れないけど、自分だけ食事して平気なその男性に
ちょっと自分の感覚と違う物を感じ、

「お仲人さんにお返事しているはずですが・・・」と

冷たく言い放ってしまった私。

今考えると大人げないと思いますが
やっぱり、感性の合わない人とは一緒になれませんよね。

おかしな隣人(その2) [思い出]

最初に小さな菓子折を持って挨拶に行った時も、たまたま遊びに来ていたという浪人中の弟というのが出てきただけでした。(男子禁制じゃなかったのかよっ)

本人に会って顔を見ておきたい、見て貰いたいという気持ちもあっただけに、弟さんが出てきて、菓子折を受け取り「どうも」と言って引っ込んだ時にはガックリ・・。都会ってそんなものなのか~、冷たいのね・・などと思ったものの、次の日に、その弟さんが、有名ケーキ屋さんのケーキを5~6個持ってきた時にはにんまり・・・<単純

朝早く夜遅いお隣さん、そこに住んでいた三年間、本当に顔を見たことがありませんでした。一度、夜9時過ぎにバイトから帰る時、同じバスを降りた女性が、アパート方向へ歩く姿を見つけました。そちら方向にはアパートは他にないし、「ひょっとして、この人が大蔵省のエリート?」と何となく思ったのを覚えています。

跡をつけていく格好になったのを不審に思われたのか、その女性は、途中で立ち止まり、片方のハイヒールを脱ぎ、靴の中に入った砂を払い落とすような仕草をしたので、私は追い越さざるをえませんでした。
暗がりでチラっと横目で見たその人は、ロングの髪を上品にまとめ、ブランドのバッグを持ち、いかにも今で言うセレブのような雰囲気の人でした。

私がアパートに帰って、しばらくするとお隣さんのドアの閉まる音が聞こえたので
やはり、その人のようでした。

洗濯物も洋服や下着の類は一切干してなく、干してあるのはストッキングだけ。
風に揺れてるストッキングだけは記憶に残っています。
そして、たまにお母さんらしき人が来て、掃除などをしているようでした。

そして、一番おかしいと思ったのはお風呂!
だいたい大蔵省のエリートが、いくら知り合いのアパートだからって
こんなフロ無しアパートに住むのか?という疑問は当然のことですが

帰宅時間はいつも12時過ぎ!(ドアの音でわかる)
大家さんによると、毎晩タクシーで帰って来てるらしい。

お風呂無しアパートなら銭湯に行かなくてはなりませんが、
そんな時間には銭湯はとうに閉まっています。

いったい、この人はお風呂に入ってるんだろうか?

大家さんのお風呂を使っている様子もない。

本当に不思議で仕方ありませんでした。

大蔵省で入ってくるのか?

大蔵省にお風呂はあるのか?


結局最後までお風呂の謎は解けませんでしたけど、不思議な人でした。


私がアパートを引き払い、故郷に帰ることになって、大家さんのところに挨拶に行くと

またまた○子ちゃん自慢が始まり、どうやら、同じ大蔵官僚と結婚が決まったようでした。
ホテル・オークラでお式、新居は都心部の高級マンション・・・・。

田舎にUターンし、余り意に染まない就職口しか無かった私にとって
夢のような話でした。

あの人は幸せになったのだろうか?

今でも大蔵省で活躍しているのだろうか?

時々、思い出すおかしな隣人でした。


おかしな隣人(その1) [思い出]

doblog過去記事より

昨日の記事で書いた1DK、トイレつきフロ無しアパートの隣の部屋におかしな隣人が住んでいました。
いや、私にとって「おかしな」と言うだけで本当はちっともおかしくないのでしょうが・・。

昨日書いたように、大家さんはとっても厳しい人で、ご主人は大学教授、奥さんは家裁の調停員、息子と娘も有名大学卒で、このアパートも、女子限定、それも、大家さんのお眼鏡にかなった人だけが入居できるということで、入居後も男子禁制というもの。
フロ無しアパートではあるけれど、その辺りの相場からすれば5000円ぐらいは安い家賃に設定してありました。

紹介してくれた学生専門の不動産屋の人からは、「くれぐれもボーイフレンドなんかと一緒に見に行かないように」と言われ、私は仲の良い女の友人と見に行きました。

まぁ、ただの田舎出の女子学生、一年間住んでいた下宿から大学までが遠いので、近いところにアパートを探しているという理由も気に入ってもらえたのか、即OKが出て、
引っ越すことになりました。

私はどうやら、ほとんど最後の入居者だったようで、既に、有名大の女子学生や、有名企業に勤める女性などが住んでいて、私の隣も、東大卒、大蔵省(現財務省)勤めの女性でした。なんでも、大家さんの知り合いのお嬢さんということで、学生時代は鎌倉の実家から通っていたけれど、大蔵省に入ったので、このアパートで「お預かりする」ことになったということでした。

「○子ちゃんは、大蔵省でも優秀で、とっても仕事が忙しくて、帰りが遅いの」と自慢げに話す大家さんの言うとおり、お隣さんの姿は殆ど見たことがありませんでした。


バイトの思い出追加 [思い出]

つらつらと書いてきた家庭教師センターでのバイト、書いているうちに思い出したことがあったので追加分。

私の席はセンター長のデスクの横にL字型に配置されていた。
いつもはそこに座っているが、センター長が留守の時には
センター長のデスクに座り、電話を受けたり、学生の応対をしたり
ちょっとした社長気分・・(笑)

ある時、家庭教師希望の学生が来て、テストを受けることになった。
センター長は留守だが、テストだけを受けさせて面接は後日ということになっていた。

男子学生が来て、私は履歴書を受け取り、希望科目のテスト用紙を渡す。
時間を計ってテストを回収し、面接の連絡を後からすることを告げ、帰ってもらった。

さて、そのテスト、なんと私が採点である。
解答はあるものの、私なんかがつけていいのか疑問と不安を感じつつなんとか採点。
履歴書とテスト用紙をクリップで留め、デスクに置いておく。

ここで、ふと「自分の受けたテストはどうなったのか?」と気になった。
センター長がいないのをいいことに、デスクの引き出しをあちこち開けてみた。

一番下の引き出しに、履歴書を保存してある分厚いファイルが入っていた。

好奇心満々でそ~っと開いてみる。
写真つきの履歴書の端にテストの点数が書き込んである。

自分の履歴書を探し当て、結果を見る。
あぁ・・半分ちょっとしかできてない~~!(T_T)
これでも大学生か・・・。情けない!

情けながったのも、ほんの一時。
今度は他の学生の結果が気になった。

履歴書を見ると、東大から名も知れぬ私大の学生までいろいろである。
さすがに国公立大の学生は点数が高い。

ふと目にとまったある履歴書・・・。
黒マジックで「変人!」と大書してある。
そして、なんと、写真にマジックでメガネやちょびヒゲの落書き!

よっぽど心証が良くなかったらしいが、しかし、履歴書にいいのか、こんなこと。
履歴書によれば、某国立大の学生だが、留年につぐ留年のようであるが・・(^^;)

他にも「不潔!」だの「礼儀知らず」などという書き込みのある履歴書を見つけ、いや~~な気持ちになった。
まぁ、雇い主だから何を書いてもいいわけだろうが、書かれている学生が可哀想になったりもした。

私のには何も書いてなくて、ちょっと安心したが
結局あれだから、どうしようもない・・(ーー;

バイトの思い出(その1) [思い出]

doblog過去記事より

学生時代、試験休みだったり、大学祭なんかで授業がなかったり
数日続けて休みの時に、3~4日の短いアルバイトをよくしていた。

今でもあるのだろうか、四谷の学徒援護会。
友達に誘われて、よく行ったっけ。
適当なバイトを見つけ、そこから電話。
今でもあの暗い四谷駅周辺のよどんだ空気を思い出す。

デパートのマネキン、印刷会社でユニセフカードの発送、ハガキの宛名書き、倉庫で在庫整理、家庭教師・・・。

家庭教師センター・・こいつがくせ者だった。

これも友達に誘われて、登録に行き、簡単な試験と面接。
センター長である中年男性と、事務員のおばさんの二人が、1LDKの古びたマンションの一室でやっていた。

ほどなく、ここから家庭教師先の紹介があった。
世田谷に住むお金持ちの社長の娘ということで、センター長と一緒に面談に行くことになった。家庭教師センターの最寄り駅から電車に乗ることになったが
切符を買うため並んでいると、後ろからセンター長が私のスカートを指さして

「あっ、スカート切られてるよ!」と言う。

「えっ?」と振り向くと、

「えへへ。。うそうそ。。」 なんだー、このおっさんは!?

緊張している若い女の子の気持ちをほぐすためか・・と善意に解釈した私もバカ。

無事、家庭教師に雇われ、しばらくした頃、また電話がかかってきた。

今度は、女性事務員が辞めたから、週3日だけでも、簡単な電話応対の仕事に来ないか・・というものだった。
その頃、アメリカでのホームステイのために、少しでもお小遣いが欲しかった私は
一も二もなくOK。

早速、バイトに行くことになったのだが・・・。

余りに鮮やかな山吹色 [思い出]

donblog過去記事より

前にも書いたが、私の卒業した小学校は戦前からの古い木造校舎で,廊下には裸電球がぶら下がって、雨の日などはとっても暗く、ジメジメと陰気な学校だった。校舎裏には元豚小屋があり、別棟のトイレ棟があり、柿の木があった。
正門近くには二宮尊徳像があり、桜の木があった。

教室には、すきま風が吹き込み、雪の日には、大きなだるまストーブを囲み、雪合戦で濡れた手袋を乾かしたりしたものだった。

そして、校庭には砂場があり、登り棒があり、鉄棒があり・・・・
相撲の土俵があった・・。

皆様の小学校には相撲の土俵はなかっただろうか?
(夫に聞いてみたが、新しい学校だったので、尊徳像も土俵もないと言っていた)
今でも地方によっては小学校に相撲の土俵があるところがあるそうだが。

その土俵には、太い四本の柱があり、非常に高い屋根がついていた。
昼休みにそこで遊ぶこともあり、非常に身近な遊び場だったと記憶しているのだが。。

あれは、私が小学校三年の時、体育の授業の始まる前だったのだろうか、とにかく校庭に他の子どもはいなかったのは確かなのだが、友達と二人で、ある男の子を捜しに行ったことがある。

先生に「○○君がいないから、捜してきて」と言われ、手をつないで、あちこち捜して歩いたのだった。

そして、その土俵のところまで来たとき

○○君はいた・・。

○○君は後ろに手をやって、柱にもたれかかっていた。

私たちの目に飛び込んできたのは、あまりにも鮮やかな山吹色だった。

○○君の白いショートパンツの裾部分から、山吹色の物体がもにょ~とあふれていたのであった。(お食事中の方、ごめんなさい)

あの鮮やかな山吹色を何十年もたった今でも忘れることは出来ない。

○○君の名前もフルネームで覚えているし、一緒に手をつないで、

「先生~っ!○○君がウンコもらしてる~~!!」

と伝えに走った友達の手のぬくもりを忘れていない。

その時には「可哀想」という気持ちよりも、「すごい物発見!」とばかりに、
嬉しそうな顔をしていた友達と同じく、私の顔もにやけていたはずである。

その後、二人で探し回ってみると、○○君はお尻を丸出しにして、足洗い場で、
先生にホースで水をかけられてゴシゴシ洗ってもらっているところだった。

○○君の泣きそうな顔、先生のちょっと怒った顔・・・忘れられない。

今思うと、彼のはなんであんなに鮮やかな山吹色だったのだろう?
白いショートパンツからはみ出た山吹色。
きっと、私の中で着色されたに違いない。

彼は今どこで何をしているのか?
同窓会も無いし、消息を聞けるような友達もいない。
色の白い可愛い顔立ちの彼の困った顔が今でも焼き付いて離れない。

追記:
もう一つ思い出したことがあった。
その山吹色の物体の回りを一匹の銀蝿がブンブンと飛んでいたことを・・。
大きな銀蝿を忘れることはできない・・・って、さっきまで忘れてたじゃないかぁ~。(^-^;


お鍋の思い出 [思い出]

doblog過去記事より

結婚して初めてのお鍋の季節がやってきた頃のこと。
毎週末になると、ケンカばかりしていた(いえ、私がふっかけていたんですが)私たち、お鍋のことでもケンカになりました。

一口にお鍋と言っても、それぞれの家庭でそれぞれのお鍋の流儀があるわけで
私と夫の場合も違っていました。その時までそれに気がつきませんでした。

私の実家では、しゃぶしゃぶは、それぞれが自分の一枚を、自分でシャブシャブっとして食べるわけです。これって違いますか??
で・・この時は豚しゃぶ鍋だったのですが、しっかり火を通したいので、私は豚肉をしばらく自分の前の隙間に置いておいたのです。

そしたら、そしたら、夫が私の食べ頃になったお肉をかっさらって行ったのですよ!
私の目の前で!当たり前の顔をして!!!

びっくりすると同時に悲しくなり(アホか??)
その次には、知らん顔の夫に腹が立ってきました。

「なんで私のお肉を食べるの??????」

「なに?私のお肉って・・?」

「だから、私が自分で食べようとお鍋に入れておいた私のお肉よ!」

「なんだそれ?お鍋に入ってる物で私のだのあなたのだのあるもんか。初めて聞いた!」とキレる夫。

だってそうじゃないですか~!
私が食べようと目の前に入れた私のお肉を、わざわざ向かい側から手を伸ばしてさらっていく人なんています~~???

信じられない行為、暴言に、しばらく口をききませんでしたね。
私のかたくなな態度に、夫も呆れて、その後、わが家では自分の目の前にあるお肉はその人のもの。勝手に手を出さない!・・こういう決まりになりました(笑)

他のお家では違いますか~?


 [思い出]

doblog過去記事より

私が子どもの頃、もう何十年も前だけど、野良犬がたくさんいた。

今はさすがに街中で野良犬がうろうろしていることはないが
私が小学校低学年頃まで、野良犬が平気で町をうろついていた。
野良犬ばかりではなく、飼い犬さえつながれずに、勝手に歩いていた。

「野良犬は病気を持っているから近寄ったらダメ」と親に言われていたし
実際、皮膚病で毛がはげちょろげの犬や、眼病病みで目が真っ赤な犬や
お尻からなにやらわけの分からないモノが爛れて垂れ下がっている犬なんかが
ひょこひょこと歩いていて、夜はどこにねぐらがあるのか姿を消し
朝になると、町をうろついていた。

だから、車に轢かれる犬がたくさんいた。

昨日のblogで、新聞紙をかぶせられた死体・・と自分で書いて
思い出したのが、犬の死体だ・・。
お食事中の方すみませんm(__)m

ある日、学校から帰ると、自宅兼店舗のわが家の前に
新聞紙をかぶせられた木の箱が置いてあった。

商売をしていたので、お店はバス通り沿いの商店街にあり
かなり車の往来の激しいところである。
道路幅もそのころはまだ狭く、自転車も車も人も犬も
なにもかもが一緒に通行していたので
犬だけではなく、本当は人が車に轢かれることも多かったのだ。

お店の前のその木の箱は、どうやら魚を入れる木の箱で
父が近所の魚屋さんからもらってきたものらしい。

木の箱のそばに父親が座ってタバコをふかしていた。

「お父ちゃん、何これ?」

私が聞くと父は

「あんたは見るな。犬が車に轢かれて死んでるから」と言う。

見たい気持ち半分、見たくない気持ち半分。

私は家の中に入らず父のそばをうろうろしていた。

すると、父の知り合いらしき男性がやってきた。

父は、その人に向かって

「犬の死体だよ。見る?」と新聞紙をめくって見せたのだった。

見えたのは、白い毛の大きな犬。
血まみれで、内蔵もはみ出しているように見えたが
父はすぐにまた新聞をかぶせてしまった。

すると今度は同じ商店街の中の食料品店のおばちゃんがやってきた。

父はまた

「犬見る?中身が出てるで~」と言い、新聞紙をめくった。

そのおばちゃんは犬の血の色と同じ真っ赤な色を塗った口を大きく開けて
「まぁ~いやだ」などとキャ~キャ~騒ぎながらも
箱の中をのぞき込んでいた。

私はもう箱の中を見なかった。

私はその赤い口紅おばちゃんが嫌いだったのだ。

そのおばちゃんに、父がからかうように犬の死体を見せたことに
嫌悪感を感じていた。

「死んだ犬を見せ物にするなんて大人はいやだ!」

私はちょっとだけ、この犬のことが可哀想になり
父や父の仲間達のことがイヤになった。

その後聞いた話によると、その犬は飼い犬らしかったので
それで箱に入れてお店の前に置き、父は飼い主が現れるのを待っていたらしい。

飼い主が現れたかどうかは覚えていない。

思い出したのは、白い毛と赤い血と、おばちゃんの赤い唇だけである。

新聞紙をめくると死体・・という発想はここから来ているに違いない。

今になって(その4) [思い出]


日本に帰国し、結局コネを利用することもなく
親元に帰り就職した私。

それから数年、どちらのファミリーともクリスマスカードの交換だけは欠かさずにしていたが、ある年の暮れ、黒人ご夫婦のほうからカードが届かなかった。
そして次の年になって、娘さんから手紙が来た。

テレビ局のプロデューサーで、ベニスビーチのマンションにも遊びに行かせてもらった、ばりばりキャリアウーマンの女性である。テレビ局をやめ、宗教問題、人種問題に取り組む活動家になり、名前も改名されていたので、最初は誰だかわからなかった。

「何故彼女が手紙を?」と思いながら、開けてみると

ご夫婦とも同じ年に、別々の病気で亡くなったことが書かれてあった。
そして、折に触れ私の話をしていたということも・・!

ここで初めて私は彼らの暖かい寛容な思いに打たれ
反して、自分の仕打ち、冷たい態度、人生の先輩に対し取った非礼・・
あらゆるものを後悔し、その場に泣き崩れた。

ホームステイの初日、奥さんが何も書いてない日記をくださり
「ここに日記を書いたらどう?そして、帰る時に英語に訳して私たちに読んでね。
アメリカでの滞在が、あなたの今後の人生の中でcherishすべき良い思い出になりますように」と言ってくれた。

その日記は途中でやめてしまい、彼らに読んで聞かせることもなく
日本に帰って捨ててしまった私・・。

こんな私なのに、彼らは忘れずに時々思い出してくれたいた。
もう二度と感謝を表すことはできない。
有り難うと、ごめんなさいと言うことは出来ない。

泣いて、泣いて、頭を抱えて泣いた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

こんな話は夫にもしていない。
ただ、あまりうまくコミュニケーションが取れなかったことは
手紙をくれた大阪の女性には日本に帰ってから手紙を書いた。
彼女からは「わかります。気に病まないで」という励ましの返事をもらったが
今でもお元気だろうか。

そして、このことを書いているうちに忘れていた色んなことを思い出した。

「他の優秀な人がたくさんいて、良い就職先はないだろう」と話す私に
「他の人は関係ない。あなたは素晴らしい人間なのだ」と励ましてもらったこと。

目玉焼きをsunny side upというのだと教えてもらったこと。

畑を借りていて、そこでいろんなものを収穫したこと。

朝食にご主人がかならず食べるフィッシュフライがオーブンで焼ける匂い

本当に優しい人たちだった・・。
本当に素晴らしい人たちだった・・。

今私の手元には、その畑で撮った一枚の写真がある。
ご夫妻の元気な姿、優しいまなざしを見ると
泣けて泣けて仕方ない。

どうして、もっと優しくできなかったか。
どうして、もっと前向きに考えられなかったか。
どうして、どうして・・・。

今になって、後悔しても遅いけど、本当に有り難う・・と心から言いたい。

FI370877_0E.jpg

今になって(その3) [思い出]

ボーイスカウトセンターでのレッスンの後、奥さんが迎えに来てくれるのだけど
他は白人家庭なのに、私だけ黒人のマザー。ホストファミリーの中でも彼女のことを知っている人たちは、彼女のことをとても尊敬していたけれど、私はだんだん鬱陶しくなっていった。

迎えに来てくれているのに、わざと気がつかないふりをしたり
彼女が忙しくて迎えに来れないときは、近くの白人ファミリーが一緒に連れて帰ってくれるのだけど、妙にほっとしたり・・。

私は既に気がついていたのだ。

自分がこの人たちの期待したような優秀な学生ではないという事実に。

一応名の通った大学の学生で、4年生ともなれば立派な大人。
英語もきちんとしゃべれて、自分のちゃんとした意見も持っており
将来有望な学生、有意義な意見交換ができるという彼らの期待。

だけど、実際は、何の主義思想も考えもない遊びたいばかりのバカ学生。
彼らの失望は大きかったと思う。

中国への旅行を前にした忙しい時期に、二週間わざわざ空けてくれたのに
私は何の恩返しもできない。
ほとんどホテル代わりに使っているだけ・・。

彼らの期待に応えられないことが苦痛になって、食後に「話をしよう」と部屋まで呼びにきてくれた奥さんに「具合が悪いから」と断り、私は一人で部屋で涙を流したりした。

そんな私に気がつき、奥さんは私を心配してよく言ったものだ。

「Don't be unhappy.」

そう言う彼女の顔も本当に寂しそうだった。
ご主人は飄々とした方だったけれど、いつもどんな時でも
ジョークを言って笑わせようとしてくれた。

今思い出しても、申し訳なさでいっぱいになる。

彼らはきっと、私のことをきっと慈悲深い目で見てくれていたと思う。
迷える子羊・・哀れなジャパニーズガール。

二週間経って、今度は30代はじめのご夫婦に2歳の女の子のいる白人ファミリーに移った。
アメリカ人らしく、快活で、活動的な一家だった。
「今度は楽しくやるそ」という気持ちもどこかにあっただろう。
年も近いこともあり、音楽の話で盛り上がったりもした。

前のファミリーのことはほとんど思い出さないまま二週間を過ごし、
とうとうFarewell Partyを迎えることになった。

それぞれのホストファミリーが、あるファミリーの家に集まり
庭でBBQをし、ゲームをし、アクセサリーを扱うファミリーからは女の子達にピアスのプレゼントがあったり、楽しく最後の時を過ごした。

私は当然今のファミリーと参加したのだが、その場になんと、前のファミリーの黒人のご夫妻も来てくれた。
しかし、私の取った態度はどうだっただろう!

彼らと挨拶をかわしただけで、ほとんど話をしなかった。
記念に・・とゴールドのネックレスをプレゼントされた時だけは
大喜びのアホな私。

中国行きを目前にしているご夫婦がせっかく来てくれたのに
私は自分が楽しむことで頭がいっぱいだった。

彼らが先に帰る時も、簡単な挨拶をしただけ。

今でも、彼らに対してとった無礼な態度の数々を思い返すと
あの時の無知なアホ学生の私を胸ぐらをつかみ、
「いい加減にしろ!バカヤロー!」と殴りつけたい思いでいっぱいになる。


メッセージを送る

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。

×

この広告は1年以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。